ハチ公と上野英三郎博士
ハチ公は1923(大正12)年11月、
秋田県大館に生まれた純日本種の秋田犬の牡で、
毛色は淡黄色、短い両耳は直立し、尾は左に巻いていた。
翌1924(大正13)年1月、
秋田県の世間瀬千代松氏が、恩師で東京帝国大学教授の
上野英三郎博士に贈った。
博士はこの犬にハチと名付けて可愛がった。
1年後には肩高60cm、体重40kgを超える堂々たる成犬となった。
上野英三郎博士は当時渋谷区松涛に住み、
帝大農学部で教鞭をとりながら西ヶ原農事試験場に通っていたが、
渋谷駅で電車を乗り降りするので、ハチはいつの日からか、
毎日博士を送り迎えするようになった。
ハチが博士に飼育されてから1年5ケ月経た1925(大正14)年5月21日、
上野英三郎博士は帝大教授会の席上、突然倒れ急逝した。
ハチはそんな不幸があったことは知る由もなく、
いつものように渋谷駅に向かい、
夜半まで博士の姿を求めて、立ち尽くしていた。
ハチが渋谷駅の雑踏の中に片時も離れず、
今は亡き主人の姿を待ちはじめたのはその翌日からであった…。
渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたハチ
その後、浅草の上野博士の親戚に引き取られたハチは、
何度も渋谷の旧主の家へ逃げ帰り、渋谷駅前で、主人の帰りを待ち続けた。
1年余り過ぎ、今度は、上野家に出入りしていた植木職人、
小林萄三郎氏に預けられたが、いつの間にか逃げ出し、
相変わらず渋谷駅の雑踏で博士の姿を求め、じっと立ち続けた。
何時とはなく、そんなハチを駅の乗降客や近所の人々が事情を知って、
同情するようになり、「ハチ公、ハチ公」と声をかける人が日毎に増え、
1932(昭和7)年10月4日には朝日新聞に、
「いとしや老犬物語」
という記事が掲載され、“ハチ公”は世間一般に知れ渡った。
動物愛護会や日本犬保存会等の有志が発起人となり、
この犬の姿を銅像にし、その美談を永遠に残そうと、
帝室技芸員安藤照氏に依頼し、1934(昭和9)年4月21日に、
華々しく銅像除幕式がハチを主賓として行われた。
犬の身でありながら生前銅像にまでなったハチも寄る年波には勝てず、
獣医師や多くの人々の手厚い看護も甲斐なく、
1935(昭和10)年3月8日、持病のフィラリアで一生を終えた。
忠犬ハチ公の銅像
現在のハチ公銅像は、終戦後に再建されたもの。
最初の銅像は、不幸にして大戦中の1945(昭和20)年4月に、
地元有志の懇願にも拘らず鋳潰され、
終戦後1948(昭和23)年8月15日に、
地元有志等が中心となり、東京都民生局が主体となって、
忠犬ハチ公銅像再建委員会によって安藤照氏の子息、
安藤士氏によって再建された。
以後、銅像の維持保存を目的とL、銅像維持会が組織され、
ハチ公命日にはハチ公と上野英三郎博士が眠る
青山墓地に関係者は墓参りを欠かさず、
4月8日を“忠犬ハチ公の日”と制定し、渋谷駅前で慰霊祭を行い、
今日に至っている。
1957(昭和32)年1月には渋谷地下街建設のため、仮移動し、
建設後現在の位置に永久に安置する事になった。